昭和43年12月20日 夜の御理解


 良い信心ができるということは良いお導きができるということ。あちらは良い信心ができなさると例えば云うても良いお導きを受けなかったら、ゆはゆる善導者がなからなかったら良い信心が育って行きません。
 良い信心が良い信心として育っていかなければありがたいという気持ち、もったいないという気持ち心は成長してまいりません。
 本当に良いお導きを頂ける状態に何時も有らなければならないということです。例えば道をひとつ尋ねましても、そこの角を右に行けばいいですよ」と云うだけよりも「その角を曲がって向こうに行けばいいですよ」といってその角まで連れて行ってあげ、そして「あそこから曲がんなさい」これが良い善導であり、良い善導を受けると言うこと、さあいきなさいというだけでなく。
 ですから尋ね方にもよる訳です。椛目にかわった人がおられた。帽子を被ったまま道を尋ねた人に「あんた帽子脱がんの」これは子供の時に聞いた話ですけど、その人はそういうようなひとじゃったと聞いたことがある。確かにそうだ。「どこどこさんそこはどういったらいいの」「あんた帽子とってから聞かんの」
 これと同じようなことがありはしないだろうか。良い信心をいただきたい良いお導きが頂きたいと思うならば、こちらの姿勢が先ず出来なければだめです。そこに始めて親切なお導きいただける良い善導を受けることが出来るのである。
 私はこの態度ということを本当に思います。態度が悪い。昔の兵隊なんか態度が悪いというだけで叩かれよった。ゆわゆる、道を尋ねる態度が悪い、帽子を被りながら「どっちに行ったらいいでしょうか」帽子をとってから聞けと云はにゃおれないような態度ではおかげは受けられない。
 みちを聞くのなら礼を尽くしてからそして態度に言葉に現して、足らない処に、次の善導を受ける事ができる。自分が知っとるといったような道を歩く事はもういよいよ間違いの始まりです。自分のカンで行こうとする。いわば久留米に行かなければならないのに
北の方に行って気が付くのでは遅いでしょうが。それよりもその時その時に自分より先輩、本当に知った人に対して実意な態度をもって道を習ってゆくという、そこに良い善導を受ける事ができる。
 今日朝の御祈念の後に羽田野さんが「今日は主人の発ち日でございます」といってそのことのお届があった。私はそんならご挨拶さしてもらうから4時の御祈念があるから4時の御祈念に合せようかと思ったけれど気分が乗らなかったから4時の御祈念には差してもらはなかったけれども、何時私の気分の上に良い気分が頂けるかわからんからお供えだけ先にセットしてくれというてお神酒と昼下がらせていただいたら「先生こんな綺麗なおみかんをいただいた」と云うて家内が持ってきてくれた。
 途端に「それ一つでも御霊さんにお供えするけん、神饌室へ持っていっておくれ」といって、みかんが一つお供えしてあるでしょう、あれは昼私がお食事の時に「こんな大きなみかんを頂いたというみかんなんです。
 皆さんも、朝のお届があったそこから、こうやってぉ神酒とおみかんをお供えさしていただいた。もちろん羽田野さんが今晩みえるとは知らなかった「今晩来ますけん」というお届もなかった。今日は田主丸の共励会でもあったし、とても見えるとは思はなかったなかったけれども、羽田野さん出て見えた。
 私の玉串だけせいというとったからいま玉串を上げていただいた訳ですけれども、御神前にに出らしていただいたら松の枝と白のばりんげの菊の一輪を交差して頂いた。私の心の中に私自身がよい善導を受けているなあ、また御霊様の善導を受けているなあと言う実感でいっぱいでした。
 それで只今の御理解を頂いた。どうでしょうか私朝から心尽くしその思いと言うかというような事をしてなかったら・・・・?面目なかった。
 私は良いお導きを受けるということは、そういう心の使い方というものが心懸けておかないといかん、それが出来れる。
 例えば道を尋ねるときには慇懃(いんぎん)に帽子を取って尋ねる、それが心懸けでなく、そうさせていただかなければおれぬものが日頃に養われていかなければならない。
 自分で例えば探り探り道を求めて行く、それも有りがたいかもしれないが、もっと素直になる、自分で勉強する自分で分かって行くということは、もっと他のことに、もうほんとに分かっている処、私が居る道私が通ってきた道をそれをわざわざ自分で工夫する必要があろうか、ゆわゆる親先生云わしゃる通りにする素直さが必要である。
 それで尚且つ工夫しなければならない事、精進しなければならないことはその他に有る。骨折らん処は折る必要はない。私が辿っている道が違っているというならいざ知らず先生が行かにゃならん道ならば皆さんが例ば、秋永先生ではないですが、それが例え地獄道に繋がっておってもと云う、思い思われることは大変ありがたいこと。
 けいどもそれが良い善導でありそれを確信さして頂いたら、人間に習ろうていく素直さが必要である。
 私もたったみかん一つの良い善導を受けたような気がする。今日の御霊様を通して今まで違った道を新たに一歩前進した。御霊様も良い善導を私によって受けられた。御霊様にご挨拶しながらそう感じた。
 そして私共の日頃の道を求めて行く、尋ねて行く者の姿勢というもの思いというものが薄いなあー、その思いというものが至っつていないなあー といったことを感じました。 今日菊栄会でもあります、そういう意味もあったのかもしれません。
 お供えさして頂いたお神酒が面者の松という それにおみかん、おみかんを二つに切ればば菊の花である。
 菊の花と松と交叉しているそういうありがたい雰囲気の中に今日のお父さんの御霊さまのご挨拶を終わらせていただき、そういう雰囲気の中に今日の菊栄会がある。そこには素直な素直な心、もっともっと素直な素直な心で言動を受けさしていただける態度を検討してみる必要がないだろうか。
 精神尋ねればそんなことはわかっておる、だから尋ねん方が良いという場合があるかもしれない。
 
 なして、自分が左と思うたら先生が右ということは分かっておると言う場合すらあるのじゃなかろうか、これが本当だと自分で一人決めせていることはなかろうか、そういう処をそれこそ帽子を被りながら道を尋ねているようなことはないであろうかと言う風に検討していくといいと思うですね。
 そういう私の午前中からの思いが形の上においてはみかん一つだけれどもみかん一つにこめられた私の思いがこのようにありがたい言動を受ける事が出来た。
 ・・?さんあなたが見えること知らなかった、見えると思はなかった。期せずして私四時にする時に気分がのらなかったのも合点がいくのです。  どうぞ・・(音が消えている)

  広崎